![]() 加賀藩には家老の上に、万石クラスの年寄八家(長、前田長種系、前田直之系、奥村本家、奥村支家、横山、村井、本多)があり、その下に境奉行、算用場奉行など各種奉行職が設けられていた。そのうちの算用場奉行の下に、魚津在住(魚津郡代)、今石動・氷見・城端支配 (今石動奉行)、魚津町奉行、高岡町奉行、砺波・射水郡奉行、新川郡奉行、吉久・伏木詰米奉行などの各職が置かれている。富山藩では寄合所の家老支配下に各種奉行職が設けられていた。 郡方 越中国は加賀藩領の砺波郡・射水郡及び新川郡の大部分と、富山藩支配の婦負郡及び新川郡の一部から構成される。 加賀藩は東岩瀬に新川郡奉行所(天保十~十四年のみ三日市に下新川郡奉行所を設置)を置き、小杉新に砺波・射水郡奉行所(天保十~十四年、嘉永元~元治元年のみ砺波郡奉行所を設置)を置いて、出張所を砺波の杉木新に設けた。ただし各二名の奉行は基本的に金沢にいて、現地には郡方足軽が駐在して事務処理を行っていた。 藩が行政を遂行する上での郡奉行所勤務の藩士は少なく、どうしても住民に依存しなければならない。郡方は農地であるため、由緒のある農家が代官の地位に任じられる。これが十村であり、最上位の無組御扶持人十村の下に御扶持人十村(藩から扶持を受ける)や平十村がいて各組を束ね、その下に山廻役(御用木などの取り締まり) や新田才許(新田開発の事務管理)といった分役がいる。郡奉行所は陰聞役を分役などから選び、検地の適否や村の実情把握に努めていた。また村民は肝煎や組合頭などを選び、自治を行っていた。富山藩も同様で、婦負・新川郡を束ねる郡奉行が十村を通じて行政を遂行していた(十村は富山町に詰める)。このように、越中国では村内統治の仕組みが出来ていたので、藩が直接住民に指示を出すことは、基本的にはなかった。 町方 加賀藩は高岡・今石動・氷見・城端・魚津を町に指定し、高岡と今石動、魚津に町奉行所を置いて、事務管理に当たらせた。ただ藩士の数は少数で、今石動には奉行の赴任はなく、与力・足軽で今石動・城端・氷見を管轄しなければいけない。魚津には魚津在住や魚津御馬廻が赴任しているといっても町方とは管轄が異なる。しがって町政は町人に依存せざるをえず、町人代表である町年寄・町肝煎・算用聞(会計監査)・組合頭(町内代表)が町会所に集って自治を行っていた。なお越後との国境である境は町と村の中間に位置し、境奉行の管轄であった。富山藩では富山町が城下にあるため奉行所の管理下に町年寄などがあったが、売薬商人などの意向を無視し得ず、反魂丹役所は共同で運営した。また八尾・四方・西岩瀬は三宿といわれ、郡方ではあっても町方同様の行政が施かれていた。 農政 加賀藩では自作農の育成と新田開発を農政の方針に掲げ、町人が名義上のみの農民になって田畑の高を保有することを禁じた。それは町人が購入したり、借金の形に貰い受けた土地を未開墾のまま放っておいたり、小作に貸したはいいが小作人が年貢を収めず、町人が負担する羽目に陥り訴訟に及ぶ、といったことなど起きていたからである。そこで天保八(一八三七)年七月から慶応二(一八六六)年にかけ、農民の借財の解消と町人の買い取った土地の没収を断行する。一方で農民の商売を許可制にし、肥料の改良や新田開発などを通じて農業改良に努め、免(租税率)の引き上げを図った。没収した土地は小作を余儀なくされていた頭振や小前に分配した。ただ海防に莫大な経費がかかるようになる嘉永頃には、村に戻して手数料を納めさせる形へと変化せざるを得なくなる。 また町人に対しては、高利貸しを禁じ、物価を引き下げるため売薬以外の株仲間を廃止し、自由売買を奨励して減税措置をとった。 加賀藩は前田利常が慶安四(一六五一)年に改作法を施行し、領民と藩士とのつながりを断つとともに、農業振興のため高を持たない頭振を減らし、農地を私有化させずに高のみを保証し、各村の田の条件を均分化するため、耕作田を約二十年ごとに鬮で割替していた(田地割)。そのため測量術の発達が見られる。新川郡では明暦二(一六五六)年に改作法を発し、寛永十九(一六四二)年より田地割を行う。このような政策が実を結び、反収の向上と、高を有する自作農の育成は確実に進んだ。 富山藩では藩の発足以来藩士の人数が多すぎ、大幅な人員整理を行いながら、免税措置をとり新田開発を促進する(新開発は三年、後五年免税)。また農民が耕作を続けられない事情があるときには、届け出れば耕作可能な農民に土地を売ることを許可した。その際十村や肝煎の買取を禁じ(安く買い叩く恐れがある)、売主の不利を防ぐため、藩が仲介して高値に誘導することまで行っている。 石高・人口 ●石高(本高と新田高の合計) 砺波郡 正保三(一六四六)年 220,863.270 嘉永六(一八五三)年267,056.804 慶応三(一八六七)年 276,181.000 射水郡 正保三年 146,885.340 慶応三年 182,586.000 新川郡 正保三年 170,880.590 慶応三年 250,606.000 富山藩領 正保三年 122,089.180 明治二年(一八六九) 155,532,190 『富山県史 通史編Ⅲ』 急河川の扇状地に村があるため、川崩れと格闘しながらの新田開発と反収拡大であった。 ●人口 (『富山県史』参照) 領民 戸数 人口 一戸当り人口 砺波郡 嘉永六年 郡方 28,198 152,045 5.4 明治五年 郡方 31,522 172,005 5.5 町方 今石動1,086 4,950 4.6 城端 888 3,963 4.5 射水郡 明治元年 郡方 19,122 100,108 5.2 町方 6,500 29,939 4.6 (高岡・氷見) 新川郡 明治三年 32,440 171,423 5.3 人口拡大地域 富山藩 富山町 天保十二年(一八四一) 6,890 26,936 3.9 郡方 慶応四年 農家 12,559 55,348 4.4 三宿 2,256 10,063 4.5 (西岩瀬・八尾・四方) 僧・神官 25 119 4.8 その他 301 1,431 4.8 一戸当たりの人口は、明治ニ十ニ年まで五人未満(町四人・郡五人)で、十五歳未満人口が三十五%を超えるのは明治以降である。また昭和四年までは男性が女性の数を上回っていた。 藩士卒人口 明治三年ごろ 加賀藩(全体) 男 女 士族 13,907 14,776 卒族(足軽) 14,655 12,383 中間・小者3,567 2,371 富山藩 士族 3,720 3,520 卒族 4,876 4,639 (「藩制一覧」より) 加賀藩・富山藩領新川郡の成立 前田利長は慶長四(一五九九)年徳川家康に服し、翌年の関が原での合戦には徳川方を宣言して大聖寺に出兵する。同十年六月に利常へ譲り隠居して富山城に移るが、同十四年三月の大火で新築の高岡城に移り、同十九年五月二十日に没した。利常は元和元(一六一五)年の大坂夏の陣に徳川勢として参戦した。 寛永十六(一六三九)年に前田利常は長子光高に譲って小松城へ隠居するにあたり、次男利次に富山藩と三男利治に大聖寺藩を分与する。新川郡は加賀藩領だけではなく、富山・大聖寺両藩領も含む。土方雄久が慶長十一(一六〇六)年まで布市村付近に一万石を有していた。富山藩祖前田利次は婦負郡百塚山に城を築くつもりで、寛永十七年に加賀藩から富山城を借りて入城する.藩領十万石中婦負郡六万石、新川郡の内富山城周辺三万千七百石・黒部川左岸に一万六千八百石、加賀国能美郡に二万石であった。黒部川右岸には大聖寺藩が四千三百石を有している。しかしこれでは飛地が入り組み、富山藩としては城が借り物で、藩士は百塚から通わねばならず、物資調達に不便であるし、新城は財政的に出来そうも無い。そこで万治三(一六六〇)年に領地替えを行い、新川郡東部は全て加賀藩領とし、西部は富山藩領とする。 寛永十六(一六三九)年に前田利常は長子光高に譲って小松城へ隠居するにあたり、次男利次に富山藩と三男利治に大聖寺藩を分与する。新川郡は加賀藩領だけではなく、富山・大聖寺両藩領も含む。土方雄久が慶長十一(一六〇六)年まで布市村付近に一万石を有していた。富山藩祖前田利次は婦負郡百塚山に城を築くつもりで、寛永十七年に加賀藩から富山城を借りて入城する.藩領十万石中婦負郡六万石、新川郡の内富山城周辺三万千七百石・黒部川左岸に一万六千八百石、加賀国能美郡に二万石であった。黒部川右岸には大聖寺藩が四千三百石を有している。しかしこれでは飛地が入り組み、富山藩としては城が借り物で、藩士は百塚から通わねばならず、物資調達に不便であるし、新城は財政的に出来そうも無い。そこで万治三(一六六〇)年に領地替えを行い、新川郡東部は全て加賀藩領とし、西部は富山藩領とする。翌年の富山町には町数八十二町・家数二千九百七十八軒・一万六千人が居住していた。 加賀藩は魚津城に城代を置いて、軍事上の事項や十村を指揮したが、元和の頃より領内の城を破棄し、寛永十五年には魚津城を廃城とする。万治三年八月には魚津町に郡代と金沢算用場支配の町奉行を置き(兼任もある)、寛文元(一六六一)年に郡奉行を独立させ郡代の権限を縮小し、郡奉行が十村や肝煎を管轄した。同五年に郡奉行所の出張所が東岩瀬に作られ、足軽が駐在する。郡奉行所は天保十(一八三九)年から同十四年まで早月川を境に上下の新川郡に分けられ、前者は東岩瀬、後者は三日市に役所を置いていた。農業指導は改作奉行が担当するが、郡奉行が兼任する期間もあった。 新川郡には万治三年から十村組を十組に編成し、寛文十二年に十三組とする。天保十年に組替えし、赤川・芦崎・生地・浜石田・浜経田・滑川・高月・東水橋・西水橋・東岩瀬(浦方十村)の各村に置いた。村数は加賀藩領について天保十一(一八四〇)年時点で、上新川郡に太田・島・広田・高野・上条・弓庄・下条・西加積の各組・五百四十九ヶ村・草高十四万千九百九十五石余、下新川郡に東加積・上布施・下布施・大三位・五ヶ庄・三位の各組・二百九十八ヶ村・草高七万三千百九十七石余であった。富山藩領について、元禄十一(一六九八)年時点で村数が七十三ヶ村・高三万七千百四十九石、新田が三十七ヶ村・高九千六百五十五石、文政二(一八一九)年には加賀藩領が八百二十八ヶ村・富山藩領が百二十八ヶ村(三州志)であった。 承応四(一六五五)年から射水郡三人・能美郡と砺波郡から各一人を十村として招き、農業指導を受ける。元禄七(一六九四)年より藩の指示に面従腹背であった郡内の国人出身十村を解任し、享保二(一七一七)年には新川郡で唯一留任した天正寺村金山十右衛門が臨時に十三組を支配する。同九年以降に射水郡(神保・朽木・宝田等)や砺波郡(伊東等)から転任させ、宝暦四(一七五四)年までに全て任命する。 新川郡では水田開発のため、広大な河岸段丘に黒部川や片貝川などから引水することを試みる。工事は容易に進まず、享和二(一八〇二)年に伊東祐寿(通称・彦四郎、号・駒峯庵)の尽力で愛本新用水が開削されると、黒部川右岸の舟見野にも水田が開かれる。これ以降国内諸力を結集して黒部川右岸・宮野用水・十二貫野用水(天保八年)等を開削し、特に椎名道三は早月川から取水する室山用水や東福寺野の開拓、神通川右岸の舟倉用水の大改修(開削は文化七年、砺波郡十村の五十嵐之義が尽力)に深く関わった。天保七(一八三六)年松本開の開墾が行なわれる。五百石はもと小松原で高野と称して東西に分かれていた。西高野は金山十次郎・東高野は朽木兵左衛門が開墾を願い出て五百石を目標にしたという。この年に朽木兵左衛門は家建を申請し、米沢新村の盛田家等が引っ越してきたものの戸数が増えず百戸程であったようである。松の木が多いため松本開の名で呼ばれた。材木の伐採について黒部山伐出御用主付を設置し、材木を入札払いとした。同十二年四月藩費による布施山開墾地の用水路が完成する。内山村尾野治谷と宇奈月谷を水源にし、氷見や礪波の人足も雇い蛇行する用水路を掘って七里十三町を竣工した。藩は移住を奨励し、移住者には銭十二貫文を支給したので十二貫野という名が付いたともいう。ここの龍ノ口用水は下げ管十八間・上げ管十七間の山上にサイフォンの原理で谷を越えて向こうに吹き上げ、最低部には泥抜きを作った。江戸より帰国途中の前田斉泰は三月二十八日にこの用水を視察している。 郡内には松倉・河原波(かわらなみ)・虎谷(とらだに)・下田(げだ)・亀谷(かめかい)・長棟(ながと)・吉野(よしの)の越中七金山があり、寛文三年新庄新町に金山裁許を置くが、すでに鉱山としては過去の物となりつつあった。宿駅として、元和二(一六一六)年時点で富山・滑川・魚津・三日市・沓懸(くつかけ)・上野(うわの)・入膳・横山・春日(かすが)・泊・境・東岩瀬・千原崎(ちわらざき)・草島が定められ、三日市以東に八駅を置いたのは、困難な川越のためである。やがて治水が進み春日・横山・上野・沓懸の各駅を廃した。寛文二年に黒部峡谷入口に愛本橋を架けて上街道を開くと、舟見・浦山にも宿が設けられた。他に富山城下から飛騨に入る飛騨街道や立山への立山道や岩峅寺道もある。東岩瀬には文化四(一八〇七)年に家数七百九十軒あり、宿方は四百十軒・浦方は二百十三軒・田地方が百六十軒・他に七軒という内訳である。 水産物以外に特産としては馬の献上地であり、木綿や絹織物を生産し、陶器作り、東岩瀬・水橋・滑川等では売薬も盛んになる。上市や五百石、上滝等は市場町として栄える。郡内では船を用いることで生活が成り立ち、渡海船や川舟が就航する。各河川には多くの川除を築くが、洪水は常時発生する。被害が多い所は耕作を諦め、林や牧草地にした。安政五(一八五八)年二月の大地震では大鳶・小鳶が崩落して、堰き止められた常願寺川が決壊して流域百五十八ヶ村を破壊し尽くした。左岸の住民は右岸へ引越して開拓する。 藩は領民に孝行を奨励し、三つ子や捨子養育に補助を支出するとともに、九十歳以上に一人扶持を支給し、百歳を越えると特に祝いの白銀が渡された。魚津町などでも受給者が確認できる。 訪問者の見た新川郡の様子 加賀藩に招かれた思想家の海保青陵は文化三(一八〇六)年七月四日に立山登山し、山中に四泊・室堂に二泊した青陵は立山の開発に着目し、芦峅辺りの村民に銀や鉛等のありかを聞き出すこと、地獄谷では明礬や硫黄が燃えてなくなってしまうこと、賽ノ河原辺りに明礬・礐石・硫黄があれば宝物が産出すること、剱岳は緑青で塗ったような山であるから金銀玉宝がたくさんあるに違いないことを指摘し、山師を派遣して探査すべきであると提議した。そこで藩は硫黄を掘り出し、天保十五年から万延二年まで東岩瀬の道正屋三郎右衛門、滑川の湊屋八兵衛・鍛冶屋太吉に払下げ、大坂へ四万斤売り出す。 江戸の思想家本多利明は加賀藩の顧問に就任すると、文化六年十一月新川郡の布施川・片貝川の川原を開発し上田にすることを提案する。 八家の一つ本多家の家臣であった上田作之丞貞幹は苦学した後に本多利明に学んで、やがて藩政末には黒羽織党を率い加賀藩政を牛耳ることになる。自らの見聞を広めるため全国各地を旅行するが、越中国にもくまなく回った(『老の路種』等)。新川郡では岩瀬、石割村、下山、舟見村で椎茸に関心を示し、上市や魚津など、射水郡・砺波郡では伏木、高岡、放生津、氷見など、小杉、太閤山では西瓜に言及し、福光や今石動など、富山では八尾や四方などへ足を伸ばす。更に各地で学問教授を行い、多くの人々に影響を与えた。その際、天保期の新川郡上市村を美しく、柔和温順である絶賛し、農商の共存を高く評価している。この頃の上市は新川木綿生産と流通の中心地であった。また新川郡鹿熊村の灌漑計画を例にあげ、新田開発は人口の増減に応じてするべきであり、新田裁許等の係りを増やせば逆に農民負担が増加することを指摘した。 安政四(一八五七)年九月富山藩に招かれた盛岡藩の学者佐藤昇庵は、藩へ売薬は富山藩の宝であるが、弊風を改めないと廃滅してしまうので、産物会所の下に支配すべきであること、漆樹の植樹を農民が持高一石につき一本行えば一時に十万本が可能になること、漆樹一本は水田一石の利益と同じであること、手間賃・肥料代として漆百本につき金一両ずつ渡し漆一升につき二十匁ずつ上納してもらうとよいこと、等を提議した。早速富山藩では早速漆苗を神通川沿岸堤防に植樹する。売薬に関しては、すでに弘化元年二月反魂丹役所は町奉行支配から産物方支配に変更して機能強化を図るとともに、他藩の富山売薬差し止めを解除すべく全力を挙げていた。 畠山氏の支配
守護の畠山氏と守護代遊佐河内守長護は京にいるため、分郡守護代を置いた。砺波郡には蓮沼城に遊佐加賀守(反遊佐本家)、射水・婦負郡には放生津城に神保氏(反遊佐本家)、新川郡には松倉城に椎名氏が任じられた。椎名氏は相模出身で畠山氏とともに越中入りしたとも、元は千葉一族で名越氏と越中国入りし松倉中心に国人と結びついたともいう。 元中九・明徳三(一三九二)年閏十月に南北朝が合一する。永享五(一四三三)年に畠山満家が没すると持国が家督を継ぐが、異母弟に持富と持永がいた。持永は遊佐国政や斎藤因幡入道を取り込み、同十三年足利義教は持永に家督を継がせた。しかし六月の赤松満祐による嘉吉の乱の結果、持国が家督を認められ、遊佐国政は持永を越中国に逃がそうとするが失敗し、八月に持国により討伐された。 畠山持国には子が出来ず、甥の次郎政長を養子にしたが、その後側室に義就(よしなり)が生まれて家督を継ぐと、越中勢は細川氏の支援を受けた政長を擁立する。享徳三(一四五四)年四月に神保国宗父子は義就によって京で討たれた。政長は管領細川勝元に、神保長職と遊佐新左衛門は山名持豊に匿われる。将軍足利義政の判断は揺れた。八月に政長の家督を認めたかと思えば、十二月には義就に戻す。翌年二月に政長が追討されるが、越中国では政長が勢力を持ち、細川政元の支援を受けて勝利し、七月両者は講和する。長禄三(一四五九)年七月に政長が赦され、翌年九月義就は守護職を解任されて政長が家督に就き、遊佐次郎左衛門や遊佐長助・神保長誠(ながのぶ)等も従った。義就には遊佐国助や遊佐左京亮等が付く。閏九月に政長は出兵し、越中・河内で勝利、寛正二(一四六二)年七月に越中支配を完成した。義就はその後も連敗し、大和国の吉野山に逃れ山名持豊に接近する。同五年九月畠山政長は管領に就任するが、文正元(一四六六)年九月に義就は河内等を奪って勢力を回復し赦免される。翌年一月二日に今度は管領畠山政長が解任され、斯波義廉が就任して義就が家督に復すと、これが応仁・文明の大乱に発展し、政長は細川勝元と連合する。神保長誠はこの戦いで戦功を挙げ、越中国では立山信仰を保護する。 立山は「今昔物語集」に記されるように地獄の所在地と考えられ、天台宗や真言宗の修験者が荒行する場(「新猿楽記」)であったが、やがて立山地獄譚を媒介に浄土信仰の山になり、白岩・栃津川流域に立山参詣路ができる。鎌倉時代には京都で信者を増やし、立山外宮が新熊野社領であったことから熊野信仰と合わさり登山者が急増して、雄山神社が越中一宮として管轄する。この地に国人達が活動し、森尻寺・日中(にっちゅう)寺・大田(だいでん)寺・岩峅寺・芦峅寺などが連なった。長誠は熊野のある紀伊国守護代を兼任している。室町時代に芦峅寺は一山組織を編成し、神保家臣で山麓の池田城主寺嶋氏と結びつく。また黒部川南の河岸段丘を通る街道は立山から宮崎を経由して信濃国善光寺へと至る信仰の道であり、寺院が多く建立された。 この頃浄土真宗が親鸞の曾孫である存覚により拡大し、新川郡では水橋を中心に門徒が成立して越後国柏崎まで影響下に入れた。しかし綽如は砺波郡井波に瑞泉寺を創建し、ここを越中国内布教の中心としたため重心が移ってしまった。その後に浄土真宗は時宗一派の一向宗を組み入れながら政治的にも大きな力を持つまでに成長する。 文明二年二月に畠山義就は越中国守護になるが、越中は政長が神保や椎名・遊佐を通じて支配を固め、荘園を所領化していった。同五年と九年には政長が管領に戻り、同十二(一四八二)年夏畠山政長と細川政元が畠山義就討伐のため河内へ出陣し、神保長誠も同行する。同十四年政元は義就と講和し引き揚げるが、政長は神保・椎名とともに河内で義就と戦い続けた。六月に越中勢が京の鞍馬に着陣し、翌年椎名・遊佐勢は二手で京に入るのを、九月に義就は辛くも食い止めた。同十六年に両軍は山城国で戦い、同翌年十二月山城国一揆で両軍は撤収している。延徳二(一四九〇)年十二月に畠山義就は没し、基家(義豊)が継ぐ。翌年管領細川政元と歌人として名高い冷泉為広が放生津に逗留した。その際に政元は水橋と舟橋村の辺りに一族を置き、椎名氏とも組んだ。明応二(一四九三)年に将軍足利義材(よしき)と畠山政長が河内で基家を征討するが、その最中の四月二十二日細川政元が突如義材を廃し、足利義澄を擁立して畠山基家を赦免した。閏四月二十五日急襲された畠山政長は子息尚順(ひさのぶ)(尚慶(ひさよし))を逃した後に自刃し、神保・椎名・遊佐・土肥等越中勢の多くが討たれたが、六月二十九日夜に足利義材が中風を患っていた神保長誠の手引きで上原元秀の館から脱出、放生津正光寺に移った。「越中公方」「越中御所」と呼称され、近習七十人の他、北陸諸大名も馳せ参じ、大内・大友・島津・相良・菊池等も支持を表明する。義材は魚津の小川山千光寺にも二ヶ月間逗留している。その後同七年に越前朝倉氏のもとに移った。同年畠山尚慶が越中に下向し、守護代嫡子に「慶」の字を与え、神保慶良(慶宗)・遊佐慶親・椎名慶胤と名乗らせた。 畠山基家は同二年・四年と越中国に侵入するがいずれも撃退され、同八年一月三十日尚慶に敗れ自刃する。嗣子義英は細川政元と結んで尚慶に抗すが、椎名勢が河内へ行った他は国内に留まった。文亀元(一五〇一)年十一月十八日神保長誠が没し、足利義材に従って周防国まで行っていた神保慶良が前年に帰国していたため、直ちに慶宗と改名して継承する。 一向一揆勢と長尾勢の侵入 この頃信仰を中心に講を作って団結する一向一揆が加賀国で勢力を強め、長享二(一四八八)年に守護の富樫政親を滅ぼしていた。神保・椎名両氏も富樫氏を助け一揆勢と戦うが、敗れている。永正二(一五〇五)年十一月義英は細川政元と対立し、ようやく尚慶と講和した。翌年に紀伊国にいた畠山尚慶が大内氏と連携したため、細川政元はかねてより幕府内で本願寺を弁護していたこともあり、総帥の実如とその弟で加賀宗徒を束ねる若松本泉寺の蓮悟に依頼し、一揆勢を越中国内へ乱入させる。椎名・遊佐・神保・土肥等は越後に退き、越後国守護代長尾能景を頼る。すでに前年越後守護上杉房能への反乱を鎮圧するため出動した能景は越中国新川郡へも侵入して、反乱勢力と連携する魚津・東岩瀬・滑川の各城を落としている。今回も出兵した能景は八月に一揆勢を婦負郡寒江蓮台寺に破るが、射水・婦負両郡を回復した神保慶宗が一揆勢と和睦したため、戦線が延びきっていた能景は孤立し、九月十九日に砺波郡芹谷野で敗死した。砺波郡の遊佐慶親は越後国春日山へ退く長尾勢と同行したので、砺波郡は一揆勢の占領するところとなった。 しかし同四年六月二十三日細川政元が養子の澄元派に暗殺される事件が起き、八月七日越後守護代に就任した長尾為景が守護上杉房能を討つと情勢が一変した。同五年七月一日畠山卜山(尚慶)は別の養子細川高国と提携して大内義興と図り、足利義材改め義稙(よしたね)(義尹(よしただ))を将軍に復帰させる。畠山卜山と遊佐慶親は一揆勢を越中国内から排除するため、能登守護畠山義総と長尾為景に働きかける。為景は同六年に房能の兄で関東管領上杉顕定に追われて越中に逃げ、佐渡で逆襲に転じて翌年六月に顕定を討ち取っていた。同十二年に長尾勢は越中に進軍するが、国人等は神保慶宗のもとに結束してこれを退けた。為景は諦めず今度は周到に国人衆の切り崩しを図った上で、同十五年と十六年に改めて侵攻する。この時には加賀の一揆勢は越前の朝倉と講和していた。卜山は為景に成功報酬として新川郡守護代の地位を約束する。神保慶宗と新川郡守護代椎名慶胤・砺波郡又(小)守護代遊佐弥九郎・畠山雑掌土肥氏は境川で抵抗するが、たちまち壊滅的打撃を受け、富山城は陥落し、慶宗は二上山へと追い上げられてしまい、砺波郡高木場の土山坊勝興寺によって辛くも救出される。だが翌十七(一五二〇)年卜山は本願寺と加賀の一揆勢に中立を約束させ、長尾為景は椎名勢の篭る境城を落とし、再攻撃のため新庄城に入城した。神保・椎名・遊佐・土肥等は太田に布陣するが、十二月二十一日に新庄で敗北して、神保慶宗は放生津に退く途中二上山が敵の手に落ちたことを聞き、射水湿原で自刃する。 同十八年二月為景が越後領内で一向宗禁止令を発したため、加賀の真宗教団と対立して一揆勢が越中国内に侵入する。畠山卜山は年末に為景を新川郡守護代に任命し、一揆勢との戦いを督励した。又(小)守護には降伏した椎名長常を任じている。しかし京では大内義興が帰国し、畠山卜山は謀反にあい堺に追放され、翌大永二(一五二二)年七月淡路島で没する。同三年春に長尾為景は一揆方と和睦して、越中国は畠山氏の領国、為景は新川郡守護代であることを確認した。 上杉謙信の支配 この頃に神保慶宗の子息で婦負郡の小嶋・寺嶋氏に匿われていた長職(ながもと)は守護代に復帰し、享禄四(一五三一)年に加賀一揆勢の内紛に新川郡小守護代である椎名氏とともに介入するが、単独で講和したため両者は対立するようになった。越後国でも天文五(一五三六)年に為景が没し、晴景が継承するものの落ち着かず、同十二年八月弟の景虎が擁立された。神保勢と椎名勢の中間に位置する井見の土肥氏は同年以降神保方に付き、池田城の寺嶋氏の保護を受ける。神保長職は土肥氏を支援するため土肥氏の所領であった富山に築城し、常願寺川辺まで支配下に置いて、松倉城の椎名氏と対峙した。 越後国では長尾景虎が支配を固め、天文二十二(一五五三)年に上洛し、永禄二(一五五九)年には二度目の上洛で空席の越後国守護と見なされる。この時には椎名慶胤も景虎のために尽力していた。同三年三月二十六日に椎名方を支援して越中入りすると、神保長職は夜陰にまぎれ富山城から脱出し、増山城に移るものの抵抗できず、婦負郡に逃れた。翌年に景虎は上杉氏を継承して上杉輝虎と名乗って関東管領に就任し、同五年にも越中入りして長職を討つ。能登守護畠山義綱が仲介し、上杉方への降伏が容れられ、射水・婦負郡の支配はそのままに増山城に入った。この義綱は同九年に家中の謀反と一向一揆勢により追放され、越中国に逃亡したが、上杉方は義綱の復帰を図る。これを妨害するため甲斐国の武田信玄は小田原の北条氏康や本願寺の顕如と結び、瑞泉寺や勝興寺と提携し、上杉勢の切り崩しを図るため神保長職を赦したことに不満を抱いていた椎名康胤や、飛騨国の江馬時盛・輝盛などへ誘いの手を伸ばす。 復帰戦は同十一年五月に実施する予定であったが、椎名康胤が反旗を翻し、激怒した上杉勢が討伐に向かうと、信玄は北越後の本庄繁長を謀反させた。上杉方である神保家中も分断され、嫡子長住や寺嶋職定は反上杉に回ったが、小嶋職鎮は上杉方として神保長職を支えた。この時に寺嶋氏が芦峅寺を味方に付けようとするが、対岸中地山城の江馬輝盛は上杉方から離反せず芦峅寺を牽制している。 上杉輝虎は武田勢が北信濃に出兵したため帰国し、翌年改めて越中国に入って金山城と新庄城を落として小(魚)津城に信頼する河田長親を置き松倉城の椎名氏を抑え、神保家中の反対派を討伐して神保覚広に寺嶋氏の所領であった地を給した。覚広と小嶋職鎮は射水郡火宮城の守備に就く。信玄が関東に出兵したため、あとを長親に任せて転戦する。輝虎は元亀元(一五七〇)年に謙信と改め、椎名氏に猛攻撃をかけた。翌年三月に謙信は一気に小矢部川近くまで鎮定し、新庄城に長尾小四郎景直を配して椎名の名跡を継がせる。この頃に神保長職(宗昌)は没し、松倉城の椎名康胤は一向一揆勢と連絡をとって、同三年五月に一揆勢は越中国に侵入を開始すると同時に、船倉等の井上氏が太田へ攻め入った。上杉勢は太田本郷で迎え撃つが、孤立無援となった火宮城は一揆勢により落とされ、神保勢は石動山へ退却した。上杉勢は直江景綱が石田から動けず、鯵坂長実・河田長親を破り富山城を落として布陣した一揆勢は三・四万人に膨れ新庄城を威圧するが、織田信長へも対応せねばならず、八月に謙信が着陣し鉄砲戦をしかけると翌月から陣が崩壊し始め、同四(一五七三)年九月に大半が退くと、支援を失った松倉城は陥落した。康胤は逃れたが三年後蓮沼で没する。 武田信玄は同年中にまた一揆勢をけしかけて謙信を越中国に釘付けにし、この間隙に京へ進軍したが、その途上四月十二日に陣没した。七月には織田信長が将軍足利義昭を追放している。八月謙信が出動し一揆勢を鎮定し、勝興寺を焼いて加賀国まで出兵し、北条氏政に対するため戻った。越中国には村田秀頼を代官として置くとともに、太田に関東管領料所を設けて、その上郷を村田に、下郷を河田に任せて上杉に抵抗する勢力を封じ、百姓の召し返しなど国内復興に努めている。同年五月に本願寺は織田勢に対する必要から上杉方と和睦すると、翌年までに謙信は栂尾城や増山城、能登国畠山氏出身の神保氏張が篭る守山城・湯山城、更に氷見から進んで七尾城を落とし、織田勢を手取川で破った。 村や町の成長 このような戦国期にあって小名主と作人・下人が団結し、用水や氏神を中心に惣村という自治組織を形成して、洪水と格闘しながら開拓を進める。用水路や農機具が発達し、二毛作が可能となって生産が増加する。生産物は名主を通じて販売された。また麻苧・桑などを植え、手工業が発展し、松倉や河原波等で金山が拓かれる。人口が増加し集落が作られ、道路が整備されて、小津や岩瀬・赤川などに船の出入りが活発になる。取引には宋銭が用いられ、貢租にも用いられるようになる。それに伴い三日市や上市という地名に残るように市が開かれ、その回数も増えて町になり、商人が成長して銭の貸し付け等を通じて農村に進出した。 ③安土桃山時代 織田信長の侵攻 天正五年十月に織田勢が加賀国に侵攻し、小松の御幸塚城を占拠して佐久間盛政が入った。翌六(一五七八)年三月十三日上杉謙信は足利幕府の復興のため出兵する予定であったが没し、信長は越前と飛騨から越中国に侵攻する。四月七日飛騨から織田勢として神保長住が戻り、射水・婦負郡を支配する。上杉方は急ぎ津毛城に椎名小四郎と河田長親を入れ、一向一揆勢を蜂起させる。織田方は飛騨口の斎藤信和を味方につけ、上熊野城の二宮左衛門太夫を誘う。九月二十四日斎藤新五郎長龍(織田信忠の家臣)が津毛城と中地山城を落として太田本郷城に入り、上杉方は今泉城に移動するが敗れ、十月四日に月岡野で合戦し、織田勢が勝利する。国人は上杉から離反し始めたが、織田家中で摂津の荒木村重が謀反したため、斎藤新五郎は美濃へ向かう。同九年に富山・古国府・増山・白鳥は神保、城生は斎藤、新庄は井上、大村砦は轡田、木舟は石黒の各氏が入ったが、石黒氏は七月に信長により近江国長浜へ呼び出されて討たれた。 上杉方でも上杉景勝と景虎の間で後継争いが起きた。織田信長は椎名方の切り崩しを図り、太田の地を約束する。椎名小四郎は河田と対立して景虎方に付くが、勝利したのは景勝であった。同九年春佐々成政が織田方として越中国に入る。上杉景勝も神保方の切り崩しを狙い、同十年二月に京で馬揃えがあるため成政と長住が離れた隙に、上杉勢は小出城を包囲する。また神保覚広(信包)等に太田の領有と越中支配の委任を約束し、長住を富山城内に幽閉させた。この失態で神保長住は失脚することになる。 急遽戻った成政は柴田勝家や前田利家と反撃し、上杉方では河田長親が没したため後退を余儀なくされた。同十(一五八二)年六月三日に織田勢は小(魚)津城を落としたが、信長は前日に本能寺で明智光秀により討たれていた。織田勢は小津城から撤退し、上杉勢の須田満親が入って、上杉から離れていた土肥政繁などの国人達の多くが戻った。織田方の七尾城代菅屋長頼は能登・越中の国人粛清に乗り出し、遊佐や寺崎などが処されている。新川郡と婦負郡は佐々成政自ら、射水郡の守山城には神保氏張が佐々長穐とともに入城し、市を保護して領内の安定を図る。上杉勢は小津城と小出城を確保し、弓庄城の土肥政繁や城尾城の斎藤信和を寝返らせ、成政は八月に小出城と弓庄城、十一月に城尾城を攻撃する。 佐々成政の支配 同十一年織田家中で継承争いが羽柴秀吉と柴田勝家の間で起きると、佐々成政は柴田方に付き、二月に越後に侵入して小津城を落とし、須田満親を追い出して富山城で上杉方を牽制した。上杉勢は小出城からも撤収する。しかし秀吉は上杉景勝と越中国内の一揆勢と結び、柴田勝家は四月賤ヶ岳と北庄で秀吉に敗れ、成政は降伏して富山城を中心に越中国の支配を任される。土肥政繁は越後に去り、斎藤信和も逃亡することで、八月には国内を平定した。 しかし同十二年秀吉と徳川家康・織田信雄(のぶかつ)が小牧・長久手で睨み合うと、八月に成政は家康・信雄の側に立ったため、上杉勢が秀吉方として越中領を攻撃する。成政は神保氏張とともに加賀と能登に向い、前田利家の末森城を攻め敗北する。九月には須田満親が侵入し、利家が阿尾の菊池右衛門等の国人達を切り崩す。これに成政は寺院を取り込むべく工作するが、十一月秀吉と家康が和睦する報を聞き、急ぎ家康に継戦を説くため浜松へ向かうが容れられず、翌年前田勢と上杉勢に挟まれながら単独で戦い続ける。しかし八月に秀吉自らが越中に侵攻すると、二十六日佐々成政は織田信雄の仲介で剃髪して降伏する。秀吉は閏八月に太閤山・呉服山・砺波山を経て金沢に入った。 この後成政は越中国内の新川郡のみ(後日摂津国能勢郡を追加)を形式的に領有するが、家族と大坂に留め置かれ、富山城は破却処分される。他の郡は前田利勝(利長)に委ねられた。この時に本願寺は越中各郡の門徒に秀吉と勝興寺(越中国内の門徒の束ね)への支援を命じている。秀吉は全国的に検地と刀狩を実施して、農民を専業化し武装を解除するとともに、荘園制度の残滓を消し去った。 前田家の支配 同十五年の九州征伐で成政は従い、肥後国の大半を付与され、神保氏張とともに移った。しかし統治に失敗し、翌年閏五月十四日切腹に追い込まれることになる。神保氏はその後徳川家に仕えた。 文禄元(一五九二)年本願寺顕如を教如が継ぐものの、翌年に秀吉は弟の准如と交替するよう命じた。これに青木の浄慶寺新信蔵と生地正宗は従わず、前田利家により斬首された。 成政に替わって新川郡を前田利家が秀吉から預り支配し、文禄四(一五九五)年に新川郡で検地を行う。ただし松倉金山等の鉱山には秀吉が奉行を通じて直轄支配している。慶長二(一五九七)年十月に前田利長は守山城から富山城に移る。同三年八月十八日秀吉は没し、翌年の三月三日に利家も没するが、その跡を前田利長が継承することで、正式に越中全郡を支配地とした。利長は国人・有力者を百姓身分としつつ扶持を与える等優遇し、これが十村制に発展する。また一向一揆の基盤である講を一掃するため検地と村切で村を作り直し領内の安定に努めた。 註 新川の表記 「東大寺封戸庄園并寺用帳」には新河、「和名抄」には邇布加波、「万葉集」の大伴家持「立山賦」には爾比可波と記される。 古代の常願寺川 谷口から西北に流れ、現在鼬川や赤江川が流れている辺りを進み、神通川に合流していた。 射水臣 砺波臣と同じく武内宿禰を祖とし、射水郡や砺波郡にも拡大する。算博士三善為胤も射水氏である。 「三代実録」仁和二年(八八六)十二月条に新川郡擬大領正七位伊弥頭臣貞益の名がある。 立山開山伝承 佐伯氏が飼っていた白鷹が逃げたので追いかけ立山山中に分け入ると熊に出会い、弓矢で射ると血を流して岩屋に逃げ、更に追うと胸に矢傷を負った金色に輝く阿弥陀仏が出現し、佐伯氏に立山を開くよう告げた。越中守佐伯有若あるいは子息有頼が慈興と称して開山する(伝承には複数の異説あり)。 二、中世
①鎌倉時代 名越氏の支配 諸国の動乱と西国の飢饉で年貢が京に入らないという事態に直面し、寿永二年十月頼朝は東海・東山道の在庁官人を指揮して年貢の徴収にあたった。北陸道にはこの時まだ義仲がいたため後回しになり、翌年の討伐後に農業生産を回復させることを目指す。元暦元(一一八四)年四月北陸道勧農使として比企朝宗が派遣され、国衙と協力して国人達の慰撫に当った。文治元(一一八五)年に五畿(大和・山城・河内・摂津・和泉)・山陰・山陽・南海各道へ国地頭を置き、勧農使と同様の権限を付与している。だが容易に進まず翌年六月に越後・信濃・三河以東と九州だけにとどめ、他の三十七国で支配権を放棄し、北陸道にはしばらく守護を置かなかった。 朝宗は鎌倉へ帰ってからも北陸道に影響力を持ち続け、一族の太田朝(とも)季(すえ)を越中国守護とするが、将軍源頼家を支える比企氏は建仁三(一二〇三)年に討たれ、太田氏に替わり北条氏が守護になる。しかし国人達は従わず、荘園の下司・公文のままであった。承久三(一二二一)年承久の乱で鎌倉勢は東海道・東山道・北陸道から上洛し、執権北条義時の次男朝時は北陸道大将軍として信濃・越後より越中へ入ると、石黒、宮崎氏(惣領は宮崎太郎の孫定範で西面の武士)は敗北、諸氏も降伏し北条朝時に所領を寄進して代官職となった。朝時は名越(なごえ)氏と改称し守護に任じられ、守護代肥後氏とともに鎌倉に留まったので、又守護の井上氏が赴任した。この頃国内の中心が潟の拡大に伴い放生津へ移り、時宗衆徒による流通活動が活発化するとともに、守護所も移動する。名越氏は北条宗家である得宗家と対立し、弘安八(一二八五)年の霜月騒動 で得宗家御内人平頼綱が安達泰盛を討伐した時には、泰盛に与していた名越氏も屈服し、得宗家に近い大仏氏から養子に入った時有が守護になる。その間に又守護井上氏は国人達と婚姻関係を結び土着していた。放生津の発展で名越氏が守護代肥後氏と直接下向するので、井上氏は反発する。倒幕活動が活発になると、名越時有は幕府方として立ち射水郡二塚に、大覚寺門跡恒性法親王を襲い、国人衆を招集するが、越中国内は反旗を翻し、ついに名越一族は放生津で滅亡した。 ②室町時代 建武の新政 後醍醐天皇の呼びかけに諸国の武士は応じ、足利高氏の変心で正慶二(一三三三)年五月に北条高時が自刃して鎌倉幕府が滅び、京で新政が開始される。越中国司には中院(なかのいん)定清(さだきよ)が任ぜられ、守護には井上俊清(普門利清)が就任した。また越後国には新田義貞が配された。定清は石動山天平寺と親しく、僧兵の力を動員できる立場にあった。だが平安朝の昔に戻すような政治に不満をもつ武士が少なくなく、建武二(一三三五)年六月に北条高時の弟時興を匿っていた大納言の西園寺公宗が拘束されると、高時の子息北条時行が諏訪頼重と信濃で挙兵し、鎌倉を落とす中(なか)先代(せんだい)の乱が勃発する。北陸ではこれに呼応し、井口城(大家庄、別説に砺波郡井口)で名越太郎時兼の蜂起があり、越中国婦負郡の長沢氏や神保氏、その他加賀・能登の国人衆を集め、越中国杉本城を拠点に椎名六郎入道の守る松倉城を攻撃する。ただし椎名や神保は国人ではないため後年の創作であるともいう。国人達の多くは結集して京へ進軍するが、大和国の高間(たかづま)行秀(ぎょうしゅう)により越前で敗北した。 桃井氏の支配 同年八月足利尊氏が弟の直義(ただよし)と鎌倉を奪取するとともに、新政に反旗を翻すと、越中勢は井上俊清の下に結集し石動山で中院定清を討ち、越後国の新田勢と戦うことになる。やがて射水郡には、妙法院門跡宗良親王初め親王方が訪れ、越中西部の沿岸は南朝の一大拠点となっていく。北畠顕家に破れて九州に逃れていた尊氏は、延元元年・建武三(一三三六)年三月に菊地氏を退け水路と陸路で京を目指す。五月二十五日湊川で楠木正成を殲滅し、二日後京に入る際は、越中勢も供をした。吉野に動座された南の朝廷に替わり京には北の朝廷が成立すると、八月尊氏は征夷大将軍に任じられた。同三・同五年閏七月二日に新田義貞が越前国藤島で討たれるが、越後国から大井田氏等の軍勢が越中領に侵入する。利清は五・六百人を率い黒部川で防御するが敗れ、松倉城に篭った。守護には一時吉見頼隆が任ぜられていたが、同四年に普門利清と交替する。 しかし法治を方針に足利直義が政務を担当すると、興国五・康永三(一三四四)年に井上利清が罷免され、桃井直常が守護となって守護と国司の権限を掌握したため、利清と国人達は越後南朝の新田勢力と結び対抗する。直常は能登国に移った吉見頼隆とともに新川郡で利清と交戦し、同六・貞和元(一三四五)年に高月で勝利する。利清は翌正平元・同二年越後の新田貞員や粟津政景等とともに吉見頼隆と戦い、能登へ侵攻するが、閏九月に敗れ、その後も利清は桃井・吉見勢と戦い松倉城に篭るが、七月に降伏する。新田勢は斬首になったが利清は国内融和のため助命された。 だが足利直義と養子直冬(尊氏の庶子)は足利家執事高師(こうの)直(もろなお)と対立し、同五・観応元(一三五〇)年十月に衝突すると、直義派の桃井勢と越中勢は南朝に帰順して吉見勢と戦い、尊氏は能登守護に桃井義綱(桃井宗家)を任じて直信(直常弟)討伐に向かわせるが、この隙に直常は諸将と呼応し翌年上洛して勝利する。足利尊氏は嗣子義詮(よしあきら)と京を脱出して直義と和解し、桃井直常は幕府に復帰して両朝合一を企図するが失敗する。足利直義は義詮と対立して北陸に逃れ、尊氏から直常とは一線を画すよう諭されるが拒否する。 一時的に尊氏は南朝に降伏し、正平七・文和元(一三五二)年二月鎌倉で足利尊氏により和解の席で直義が討たれると、守護に井上俊清が一時的に復帰した。 京では北畠親房と足利義詮が一進一退の戦いを繰り広げ、氷見でも吉見氏頼と桃井直信が交戦し、直常は越前の斯波氏等とともに南朝に降った九州の足利直冬を支え、同八年に攻勢へ転じる。京では楠木正儀と石塔頼房が京に侵入し、義詮はいったん美濃へ退くが、尊氏が鎌倉から進撃して奪還する。能登との境では吉見勢と直常が衝突を繰り返す。直信は芦峅寺衆徒へ年貢免除を条件に援兵を頼む。同九年十二月に直常が斯波高経と合流して京へ迫り、尊氏を近江へ追いやって翌年一月に直信と入京する。だが激戦の末三月に尊氏は京を奪回した。同十四年に吉見勢が越中に侵入したため利清が迎え撃つが敗れ、越後へ脱出する。桃井直常と嗣子直和は越中国内で幕府軍に抵抗していたが、斯波氏は尊氏に降る。 同十五・延文五(一三六〇)年細川頼和が守護になると、斯波氏が新田勢の抑えとして越前入りする。翌同十六・康安元年に細川清氏は佐々木道誉と対立し、南朝に走り楠木・石塔勢を京に迎えようとしたため、斯波高経は清氏・頼和兄弟を破り、信濃から侵入した桃井直和を石動山で迎撃し、松倉城の桃井勢と戦いながら、北陸四カ国を占領する。だが近江から戻った将軍足利義詮は斯波氏の野心を警戒し、佐々木道誉と図り、一転斯波高経を追討する。同二十一・貞治五(一三六六)年八月高経が越前で挙兵すると、翌年幕府に復帰した直常弟の越中国守護桃井直信は、反幕府国人から土地を没収した。しかし同二十三・応安元(一三六八)年に将軍足利義満と管領細川頼之は、降参した斯波義将(よしまさ)を越中守護に任じる。そのため国人層は斯波と桃井に分裂した。直常は義詮の弟鎌倉公方足利基氏に仕え、同二十二年基氏が没すると剃髪し上京して義詮に従うが、足利義満が将軍職に就くと、翌年三月に越中国に戻って蜂起する。同二十四年四月に松倉城に入り能登の吉見勢と戦い、九月に直和は加賀国守護富樫昌家と戦う。しかし斯波・吉見勢は越中に侵入し、直常は松倉城に篭る。同二十五年長沢で桃井直和が敗死し、松倉城が陥落する。翌年直常は飛騨国司姉(あねが)小路(こうじ)氏や石動山天平寺と計り、七月に新川郡で戦い守山城を攻撃するが、敗れて松倉城に逃れ、二十八日後(五)位で吉見勢と決戦するが大敗し、ついに滅亡する。桃井に与した国人所領は没収され、新川郡の堀江でも土肥氏が高槻で敗れ所領を失っている(一部が井見に移り禅宗寺院を建立)。この時に放生津が焼失したため守護所を射水郡二上山の守山に移した。守護代斯波義種に反発する国人達が、天授三・永和三(一三七七)年に細川氏所領の太田へ逃げ込み、そこへ斯波勢が侵入したことで紛争になり、同五・康暦元(一三七九)年管領細川頼之は解任され斯波義将が管領職に就任する。越中国守護職は一時的に細川安芸太郎が就任したともいうが、斯波氏の勢力下にあった。義将は翌年に越前国守護の畠山基国を越中国へ移動し、自ら地縁のある越前国で守護を兼任しながら、なおも越中国内で細川氏とともに影響力を保持し続けた。新川郡では大家・小佐味・城河原を所領化している。
まずは飛鳥時代から平安時代、次に鎌倉時代から安土桃山時代までを把握しておこう。
一、古代 越(高志)国は七世紀の末に越前・越中・越後に分かれた。郡の成立は大宝律令の施行(七〇一)により、それ以前は「評」と呼称されていた。越中(こしのみちのなか)国は頸城郡や大沼郡をも含んでいたが、大宝二(七〇二)年に新川郡と頸城郡との間を越中国境とするとともに、常願寺川を新川郡と婦負郡との境にした。天平十三(七四一)年に越前領であった羽咋・能登・鳳至・珠洲を越中領に編入するが、これらで天平宝字元(七五七)年に能登国を形成した。「新川」の名は、近江国新川から越中国に移住した物部氏一族に由来するとか、河の名に基づくなど、はっきりとはしない。 常願寺川扇状地はほぼ新川郡域であり、多くの分流が形成され、本流は白岩川と合流して水橋川になる。河口の水橋は交通上の要地としてやがて関所として機能する事になる。郡の規模は養老律令の中郡であり、「和名抄」には、長谷(はせ)・志麻(しま)・石勢(いわせ)・大荊(おおやぶ)・川枯(かわかれ)・丈部(はせつかべ)・車持(くらもち)・鳥取(ととり)・布留(ふる)・佐味(さみ)の郷が記されているが、川枯・丈部・車持・鳥取は荒廃していたようである(高山寺本の注記)。また石勢は石瀬と布勢を一つに記したとも考えられる(「日本地理志料」)。越後へ続く北陸道が整備され、射水郡の白城駅から磐瀬・水橋・布施・佐味へと駅が置かれ(高山寺本)、馬を佐味には八疋・他に五疋備えていた。天平二十(七四八)年春には二年前に就任した国司の大伴家持が種稲等を貸し出す(出挙)ために砺波郡・婦負郡を通り、新川郡へ延槻河(早月川)を渡って巡行している。また「延喜式」には、神度(かんと)・櫟原(いちはら)・日置(ひおき)・雄山(おやま)・建石(たていわ)勝(かつ)・八心(やこころ)大市(おおいち)比古(ひこ)・布勢の各神社が記された(式内社)。式内社は越中国内に三十四座あり、うち婦負郡と新川郡が七座ずつである。所在地は開発が進んでいた所であった。 地方の制度は初期の国造(くにのみやつこ)・県主(あがたぬし)を大化二(六四六)年に改新の詔により国司・郡司へ変え、中央から任期四ないし六年で国司を派遣し、従来の国造を郡司に任命して世襲させた。国庁はかつて阿倍臣比羅夫が蝦夷や粛慎(みしはせ)討伐に用いた射水郡の伏木に置かれ、古くは天平四(七三二)年に赴任した田口朝臣年足や、同十八年に赴任した大伴家持等が知られる。新川郡には奈良時代から平安時代にかけ郡司(布施辺りに役所、郡衙は片貝川流域)に射水臣が就任する。公地公民のもと当初家族を十数人から数十人集めた戸を五十戸集めて里としていたが、霊亀元(七一五)年に郷里制を採用して里を郷に改め、その下に里を置き郷長・里正といった役を任ずる制度が天平の頃まで続く。新川郡では里正に墨目という名が確認できる(辻遺跡)。 すでに仏教は越中国にも火葬を普及させ古墳を消滅させていたが、平安時代には末法の世に念仏を通じて阿弥陀如来の浄土に往生したいと願う。射水氏は射水郡寒江に活動の拠点を移し、十世紀末に国郡衙が機能低下すると、京の上・下賀茂神社と結びついていた。また射水氏は浄土信仰と立山信仰を結びつけ、射水親元は出家後に毎日念仏を六万遍唱えるほどであった。 養老七(七二三)年に開墾が奨励され、天平十五(七四三)年には私有を許すと、八世紀中頃には新川郡の各地に荘園が形成され、公地公民は崩壊する。東大寺は丈部・大荊、西大寺は佐味に所有し、開墾を進めていた。白岩川・栃津川流域では東大寺の荘園として墾田を拡大する。活動した人物として白岩川・栃津川流域の長谷(はせ)部是女(べのこれめ)や指揮下の乙嶋・北野、三和広(みわのひろ)麿(まろ)、大藪荘周辺の神下多麻呂、佐味荘の丈部(はせべの)吉椎丸(きしまろ)といった名前が判明している。天平勝宝元(七四九)年四月に寺院墾田地許可令が発布されると、東大寺が野占使(やせんし)を派遣し、砺波・射水・新川の各郡で大規模な土地の占有を行う。このような初期荘園はやがて荒廃し、平安時代の末には開墾者が公役を逃れるため貴族等へ寄進する荘園へと変化する。宮崎・入善・南保等の一族は佐味の辺りに形成されていた東大寺や延暦寺の荘園で成長し、一党を成すに至る。また小出手や高槻、南部の米田・山室・太田には国衙領の保、針原などに立山領ができ、北部海岸近辺に湿地帯である不湖をつくる。 荘園 太田・大家(おおいえ)・大藪・小布施・佐味・新条・須江・高野・入善・丈部・弘田・日置・堀江・森尻・吉岡 等 保 太田・賀積(かづみ)・金山・熊野・小出手・高槻・塚原・布施・堀江・山室 等 御厨(みくりや) 弘田 荘園は室町時代に在地国人層による侵食を受け、実質的には機能を失う。荘園の農民は既得権保全のため武装して抵抗した。また志摩には東大寺の封戸が五十戸あり、天暦四(九五〇)年十一月に租の穀類の他に調や庸として綿や胡麻油を納めている。この綿とは木綿ではなく絹であろう。 院政の時代には勧修寺流藤原為房が院司(院の事務)になり、子弟を諸国の国司にする。越中国にも派遣されるが、実際には赴任せず、代理の宮道氏を下向させ国務の運営に当らせた。保元元(一一五六)年に保元の乱の後、藤原通憲(信西)は閏九月二十三日に七か条の新制を発し、荘園整理と寺社勢力の統制を図るため記録荘園券契所(記録所)を設置し、越中国知行国主三条実行の子息公教が担当する。越中国司には公教の子息隆教、翌年義弟の光隆が就任した。平治元(一一五九)年平治の乱で信西が討たれて光隆が解任されると、国司に平清盛の弟教盛が一時就任するが、光隆の叔母豪子は院とも関係が有り、知行国主となって光隆の弟定隆を国司に任じた。以後安元元(一一七五)年まで一族で廻し、その後は寿永二(一一八三)年まで平盛俊等の平氏が国司になっている。越前・加賀・能登は平氏の知行国になるが、越中国では院の影響力が強く国司が平氏であっても、勧修寺家・三条家・猫間家等に所属する在庁官人(国衙の役人)である国人達は支配を受け入れず、国内には平氏の荘園は無かった。 治承四(一一八〇)年四月に以仁王による平氏追討の令旨が出されると、八月に伊豆で源頼朝が挙兵、九月木曾の源義仲も兵を挙げた。翌養和元年七月に能登国で平氏目代を追放する事件が起き、越中国でも反平氏の動きが活発化し、平氏が使う年号「養和」ではなく従来の「治承」を用いている。源義仲が六月に越後国で平氏方の城氏を破ると、石黒・野尻・河上・宮崎などは義仲に味方し出兵する。義仲の軍勢は信濃勢が主力であり、越中勢は新川の佐味荘に本拠を持つ宮崎党(惣領宮崎太郎・入善家泰・南保家隆等)が黒部川扇状地中心の下新川平野から小川下流の海岸平野一帯に広がっていたが五十余人程度で、砺波郡の石黒氏等と合わせても五百余の小勢力に過ぎない。それでも国衙の活動を通じて互いに緊密であり、婚姻関係を結ぶなど結束していた。八月に平氏は討伐のため平経正と通盛を派遣するが敗北を重ねたため、寿永二(一一八三)年四月平維盛の率いる大軍を急派する。越前での戦闘では敗れるものの、加賀国安宅湊で勝利し、宮崎太郎等の越中勢も退いた。平盛俊は五月九日に般若野で義仲方の今井兼平と戦い加賀国へ退くが、義仲は十一日砺波山合戦に勝利し、宮崎に座す北陸宮(以仁王の御子)を推戴し、延暦寺を味方に付け一気に上洛を果たすが、評判を落とした上に源頼朝と対立し、頼朝の弟範頼・義経に討伐され所領没収、北陸道に関東の御家人が派遣されると、国人達に動揺が広がった。その後範頼・義経も頼朝に討たれ、義経は北陸道から奥羽に逃れる。
新川郡の人々は厳しい自然と格闘しながら、生活領域を拡大していました。確かに楽な暮らしではなかったでしょう。中世には諸勢力との狭間で苦悩し、海岸では洪水や高波と格闘し、山地にあっては荒野開墾を諦めず、粘り強く、辛抱強く努力してきました。
しかし人々は日々の生活の中に楽しみを見出し、文化として深化させてきました。先祖の工夫や智恵が今日の新川をつくり、それを受け継いだ皆さんがこれからの郷土と新川を作るのです。ぜひ郷土の歴史を学び、人々の活動を観察してみてください。 < 前のページ次のページ >
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by niikawagun カテゴリ
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