![]() 加賀藩には家老の上に、万石クラスの年寄八家(長、前田長種系、前田直之系、奥村本家、奥村支家、横山、村井、本多)があり、その下に境奉行、算用場奉行など各種奉行職が設けられていた。そのうちの算用場奉行の下に、魚津在住(魚津郡代)、今石動・氷見・城端支配 (今石動奉行)、魚津町奉行、高岡町奉行、砺波・射水郡奉行、新川郡奉行、吉久・伏木詰米奉行などの各職が置かれている。富山藩では寄合所の家老支配下に各種奉行職が設けられていた。 郡方 越中国は加賀藩領の砺波郡・射水郡及び新川郡の大部分と、富山藩支配の婦負郡及び新川郡の一部から構成される。 加賀藩は東岩瀬に新川郡奉行所(天保十~十四年のみ三日市に下新川郡奉行所を設置)を置き、小杉新に砺波・射水郡奉行所(天保十~十四年、嘉永元~元治元年のみ砺波郡奉行所を設置)を置いて、出張所を砺波の杉木新に設けた。ただし各二名の奉行は基本的に金沢にいて、現地には郡方足軽が駐在して事務処理を行っていた。 藩が行政を遂行する上での郡奉行所勤務の藩士は少なく、どうしても住民に依存しなければならない。郡方は農地であるため、由緒のある農家が代官の地位に任じられる。これが十村であり、最上位の無組御扶持人十村の下に御扶持人十村(藩から扶持を受ける)や平十村がいて各組を束ね、その下に山廻役(御用木などの取り締まり) や新田才許(新田開発の事務管理)といった分役がいる。郡奉行所は陰聞役を分役などから選び、検地の適否や村の実情把握に努めていた。また村民は肝煎や組合頭などを選び、自治を行っていた。富山藩も同様で、婦負・新川郡を束ねる郡奉行が十村を通じて行政を遂行していた(十村は富山町に詰める)。このように、越中国では村内統治の仕組みが出来ていたので、藩が直接住民に指示を出すことは、基本的にはなかった。 町方 加賀藩は高岡・今石動・氷見・城端・魚津を町に指定し、高岡と今石動、魚津に町奉行所を置いて、事務管理に当たらせた。ただ藩士の数は少数で、今石動には奉行の赴任はなく、与力・足軽で今石動・城端・氷見を管轄しなければいけない。魚津には魚津在住や魚津御馬廻が赴任しているといっても町方とは管轄が異なる。しがって町政は町人に依存せざるをえず、町人代表である町年寄・町肝煎・算用聞(会計監査)・組合頭(町内代表)が町会所に集って自治を行っていた。なお越後との国境である境は町と村の中間に位置し、境奉行の管轄であった。富山藩では富山町が城下にあるため奉行所の管理下に町年寄などがあったが、売薬商人などの意向を無視し得ず、反魂丹役所は共同で運営した。また八尾・四方・西岩瀬は三宿といわれ、郡方ではあっても町方同様の行政が施かれていた。 農政 加賀藩では自作農の育成と新田開発を農政の方針に掲げ、町人が名義上のみの農民になって田畑の高を保有することを禁じた。それは町人が購入したり、借金の形に貰い受けた土地を未開墾のまま放っておいたり、小作に貸したはいいが小作人が年貢を収めず、町人が負担する羽目に陥り訴訟に及ぶ、といったことなど起きていたからである。そこで天保八(一八三七)年七月から慶応二(一八六六)年にかけ、農民の借財の解消と町人の買い取った土地の没収を断行する。一方で農民の商売を許可制にし、肥料の改良や新田開発などを通じて農業改良に努め、免(租税率)の引き上げを図った。没収した土地は小作を余儀なくされていた頭振や小前に分配した。ただ海防に莫大な経費がかかるようになる嘉永頃には、村に戻して手数料を納めさせる形へと変化せざるを得なくなる。 また町人に対しては、高利貸しを禁じ、物価を引き下げるため売薬以外の株仲間を廃止し、自由売買を奨励して減税措置をとった。 加賀藩は前田利常が慶安四(一六五一)年に改作法を施行し、領民と藩士とのつながりを断つとともに、農業振興のため高を持たない頭振を減らし、農地を私有化させずに高のみを保証し、各村の田の条件を均分化するため、耕作田を約二十年ごとに鬮で割替していた(田地割)。そのため測量術の発達が見られる。新川郡では明暦二(一六五六)年に改作法を発し、寛永十九(一六四二)年より田地割を行う。このような政策が実を結び、反収の向上と、高を有する自作農の育成は確実に進んだ。 富山藩では藩の発足以来藩士の人数が多すぎ、大幅な人員整理を行いながら、免税措置をとり新田開発を促進する(新開発は三年、後五年免税)。また農民が耕作を続けられない事情があるときには、届け出れば耕作可能な農民に土地を売ることを許可した。その際十村や肝煎の買取を禁じ(安く買い叩く恐れがある)、売主の不利を防ぐため、藩が仲介して高値に誘導することまで行っている。 石高・人口 ●石高(本高と新田高の合計) 砺波郡 正保三(一六四六)年 220,863.270 嘉永六(一八五三)年267,056.804 慶応三(一八六七)年 276,181.000 射水郡 正保三年 146,885.340 慶応三年 182,586.000 新川郡 正保三年 170,880.590 慶応三年 250,606.000 富山藩領 正保三年 122,089.180 明治二年(一八六九) 155,532,190 『富山県史 通史編Ⅲ』 急河川の扇状地に村があるため、川崩れと格闘しながらの新田開発と反収拡大であった。 ●人口 (『富山県史』参照) 領民 戸数 人口 一戸当り人口 砺波郡 嘉永六年 郡方 28,198 152,045 5.4 明治五年 郡方 31,522 172,005 5.5 町方 今石動1,086 4,950 4.6 城端 888 3,963 4.5 射水郡 明治元年 郡方 19,122 100,108 5.2 町方 6,500 29,939 4.6 (高岡・氷見) 新川郡 明治三年 32,440 171,423 5.3 人口拡大地域 富山藩 富山町 天保十二年(一八四一) 6,890 26,936 3.9 郡方 慶応四年 農家 12,559 55,348 4.4 三宿 2,256 10,063 4.5 (西岩瀬・八尾・四方) 僧・神官 25 119 4.8 その他 301 1,431 4.8 一戸当たりの人口は、明治ニ十ニ年まで五人未満(町四人・郡五人)で、十五歳未満人口が三十五%を超えるのは明治以降である。また昭和四年までは男性が女性の数を上回っていた。 藩士卒人口 明治三年ごろ 加賀藩(全体) 男 女 士族 13,907 14,776 卒族(足軽) 14,655 12,383 中間・小者3,567 2,371 富山藩 士族 3,720 3,520 卒族 4,876 4,639 (「藩制一覧」より) 加賀藩・富山藩領新川郡の成立 前田利長は慶長四(一五九九)年徳川家康に服し、翌年の関が原での合戦には徳川方を宣言して大聖寺に出兵する。同十年六月に利常へ譲り隠居して富山城に移るが、同十四年三月の大火で新築の高岡城に移り、同十九年五月二十日に没した。利常は元和元(一六一五)年の大坂夏の陣に徳川勢として参戦した。 寛永十六(一六三九)年に前田利常は長子光高に譲って小松城へ隠居するにあたり、次男利次に富山藩と三男利治に大聖寺藩を分与する。新川郡は加賀藩領だけではなく、富山・大聖寺両藩領も含む。土方雄久が慶長十一(一六〇六)年まで布市村付近に一万石を有していた。富山藩祖前田利次は婦負郡百塚山に城を築くつもりで、寛永十七年に加賀藩から富山城を借りて入城する.藩領十万石中婦負郡六万石、新川郡の内富山城周辺三万千七百石・黒部川左岸に一万六千八百石、加賀国能美郡に二万石であった。黒部川右岸には大聖寺藩が四千三百石を有している。しかしこれでは飛地が入り組み、富山藩としては城が借り物で、藩士は百塚から通わねばならず、物資調達に不便であるし、新城は財政的に出来そうも無い。そこで万治三(一六六〇)年に領地替えを行い、新川郡東部は全て加賀藩領とし、西部は富山藩領とする。 寛永十六(一六三九)年に前田利常は長子光高に譲って小松城へ隠居するにあたり、次男利次に富山藩と三男利治に大聖寺藩を分与する。新川郡は加賀藩領だけではなく、富山・大聖寺両藩領も含む。土方雄久が慶長十一(一六〇六)年まで布市村付近に一万石を有していた。富山藩祖前田利次は婦負郡百塚山に城を築くつもりで、寛永十七年に加賀藩から富山城を借りて入城する.藩領十万石中婦負郡六万石、新川郡の内富山城周辺三万千七百石・黒部川左岸に一万六千八百石、加賀国能美郡に二万石であった。黒部川右岸には大聖寺藩が四千三百石を有している。しかしこれでは飛地が入り組み、富山藩としては城が借り物で、藩士は百塚から通わねばならず、物資調達に不便であるし、新城は財政的に出来そうも無い。そこで万治三(一六六〇)年に領地替えを行い、新川郡東部は全て加賀藩領とし、西部は富山藩領とする。翌年の富山町には町数八十二町・家数二千九百七十八軒・一万六千人が居住していた。 加賀藩は魚津城に城代を置いて、軍事上の事項や十村を指揮したが、元和の頃より領内の城を破棄し、寛永十五年には魚津城を廃城とする。万治三年八月には魚津町に郡代と金沢算用場支配の町奉行を置き(兼任もある)、寛文元(一六六一)年に郡奉行を独立させ郡代の権限を縮小し、郡奉行が十村や肝煎を管轄した。同五年に郡奉行所の出張所が東岩瀬に作られ、足軽が駐在する。郡奉行所は天保十(一八三九)年から同十四年まで早月川を境に上下の新川郡に分けられ、前者は東岩瀬、後者は三日市に役所を置いていた。農業指導は改作奉行が担当するが、郡奉行が兼任する期間もあった。 新川郡には万治三年から十村組を十組に編成し、寛文十二年に十三組とする。天保十年に組替えし、赤川・芦崎・生地・浜石田・浜経田・滑川・高月・東水橋・西水橋・東岩瀬(浦方十村)の各村に置いた。村数は加賀藩領について天保十一(一八四〇)年時点で、上新川郡に太田・島・広田・高野・上条・弓庄・下条・西加積の各組・五百四十九ヶ村・草高十四万千九百九十五石余、下新川郡に東加積・上布施・下布施・大三位・五ヶ庄・三位の各組・二百九十八ヶ村・草高七万三千百九十七石余であった。富山藩領について、元禄十一(一六九八)年時点で村数が七十三ヶ村・高三万七千百四十九石、新田が三十七ヶ村・高九千六百五十五石、文政二(一八一九)年には加賀藩領が八百二十八ヶ村・富山藩領が百二十八ヶ村(三州志)であった。 承応四(一六五五)年から射水郡三人・能美郡と砺波郡から各一人を十村として招き、農業指導を受ける。元禄七(一六九四)年より藩の指示に面従腹背であった郡内の国人出身十村を解任し、享保二(一七一七)年には新川郡で唯一留任した天正寺村金山十右衛門が臨時に十三組を支配する。同九年以降に射水郡(神保・朽木・宝田等)や砺波郡(伊東等)から転任させ、宝暦四(一七五四)年までに全て任命する。 新川郡では水田開発のため、広大な河岸段丘に黒部川や片貝川などから引水することを試みる。工事は容易に進まず、享和二(一八〇二)年に伊東祐寿(通称・彦四郎、号・駒峯庵)の尽力で愛本新用水が開削されると、黒部川右岸の舟見野にも水田が開かれる。これ以降国内諸力を結集して黒部川右岸・宮野用水・十二貫野用水(天保八年)等を開削し、特に椎名道三は早月川から取水する室山用水や東福寺野の開拓、神通川右岸の舟倉用水の大改修(開削は文化七年、砺波郡十村の五十嵐之義が尽力)に深く関わった。天保七(一八三六)年松本開の開墾が行なわれる。五百石はもと小松原で高野と称して東西に分かれていた。西高野は金山十次郎・東高野は朽木兵左衛門が開墾を願い出て五百石を目標にしたという。この年に朽木兵左衛門は家建を申請し、米沢新村の盛田家等が引っ越してきたものの戸数が増えず百戸程であったようである。松の木が多いため松本開の名で呼ばれた。材木の伐採について黒部山伐出御用主付を設置し、材木を入札払いとした。同十二年四月藩費による布施山開墾地の用水路が完成する。内山村尾野治谷と宇奈月谷を水源にし、氷見や礪波の人足も雇い蛇行する用水路を掘って七里十三町を竣工した。藩は移住を奨励し、移住者には銭十二貫文を支給したので十二貫野という名が付いたともいう。ここの龍ノ口用水は下げ管十八間・上げ管十七間の山上にサイフォンの原理で谷を越えて向こうに吹き上げ、最低部には泥抜きを作った。江戸より帰国途中の前田斉泰は三月二十八日にこの用水を視察している。 郡内には松倉・河原波(かわらなみ)・虎谷(とらだに)・下田(げだ)・亀谷(かめかい)・長棟(ながと)・吉野(よしの)の越中七金山があり、寛文三年新庄新町に金山裁許を置くが、すでに鉱山としては過去の物となりつつあった。宿駅として、元和二(一六一六)年時点で富山・滑川・魚津・三日市・沓懸(くつかけ)・上野(うわの)・入膳・横山・春日(かすが)・泊・境・東岩瀬・千原崎(ちわらざき)・草島が定められ、三日市以東に八駅を置いたのは、困難な川越のためである。やがて治水が進み春日・横山・上野・沓懸の各駅を廃した。寛文二年に黒部峡谷入口に愛本橋を架けて上街道を開くと、舟見・浦山にも宿が設けられた。他に富山城下から飛騨に入る飛騨街道や立山への立山道や岩峅寺道もある。東岩瀬には文化四(一八〇七)年に家数七百九十軒あり、宿方は四百十軒・浦方は二百十三軒・田地方が百六十軒・他に七軒という内訳である。 水産物以外に特産としては馬の献上地であり、木綿や絹織物を生産し、陶器作り、東岩瀬・水橋・滑川等では売薬も盛んになる。上市や五百石、上滝等は市場町として栄える。郡内では船を用いることで生活が成り立ち、渡海船や川舟が就航する。各河川には多くの川除を築くが、洪水は常時発生する。被害が多い所は耕作を諦め、林や牧草地にした。安政五(一八五八)年二月の大地震では大鳶・小鳶が崩落して、堰き止められた常願寺川が決壊して流域百五十八ヶ村を破壊し尽くした。左岸の住民は右岸へ引越して開拓する。 藩は領民に孝行を奨励し、三つ子や捨子養育に補助を支出するとともに、九十歳以上に一人扶持を支給し、百歳を越えると特に祝いの白銀が渡された。魚津町などでも受給者が確認できる。 訪問者の見た新川郡の様子 加賀藩に招かれた思想家の海保青陵は文化三(一八〇六)年七月四日に立山登山し、山中に四泊・室堂に二泊した青陵は立山の開発に着目し、芦峅辺りの村民に銀や鉛等のありかを聞き出すこと、地獄谷では明礬や硫黄が燃えてなくなってしまうこと、賽ノ河原辺りに明礬・礐石・硫黄があれば宝物が産出すること、剱岳は緑青で塗ったような山であるから金銀玉宝がたくさんあるに違いないことを指摘し、山師を派遣して探査すべきであると提議した。そこで藩は硫黄を掘り出し、天保十五年から万延二年まで東岩瀬の道正屋三郎右衛門、滑川の湊屋八兵衛・鍛冶屋太吉に払下げ、大坂へ四万斤売り出す。 江戸の思想家本多利明は加賀藩の顧問に就任すると、文化六年十一月新川郡の布施川・片貝川の川原を開発し上田にすることを提案する。 八家の一つ本多家の家臣であった上田作之丞貞幹は苦学した後に本多利明に学んで、やがて藩政末には黒羽織党を率い加賀藩政を牛耳ることになる。自らの見聞を広めるため全国各地を旅行するが、越中国にもくまなく回った(『老の路種』等)。新川郡では岩瀬、石割村、下山、舟見村で椎茸に関心を示し、上市や魚津など、射水郡・砺波郡では伏木、高岡、放生津、氷見など、小杉、太閤山では西瓜に言及し、福光や今石動など、富山では八尾や四方などへ足を伸ばす。更に各地で学問教授を行い、多くの人々に影響を与えた。その際、天保期の新川郡上市村を美しく、柔和温順である絶賛し、農商の共存を高く評価している。この頃の上市は新川木綿生産と流通の中心地であった。また新川郡鹿熊村の灌漑計画を例にあげ、新田開発は人口の増減に応じてするべきであり、新田裁許等の係りを増やせば逆に農民負担が増加することを指摘した。 安政四(一八五七)年九月富山藩に招かれた盛岡藩の学者佐藤昇庵は、藩へ売薬は富山藩の宝であるが、弊風を改めないと廃滅してしまうので、産物会所の下に支配すべきであること、漆樹の植樹を農民が持高一石につき一本行えば一時に十万本が可能になること、漆樹一本は水田一石の利益と同じであること、手間賃・肥料代として漆百本につき金一両ずつ渡し漆一升につき二十匁ずつ上納してもらうとよいこと、等を提議した。早速富山藩では早速漆苗を神通川沿岸堤防に植樹する。売薬に関しては、すでに弘化元年二月反魂丹役所は町奉行支配から産物方支配に変更して機能強化を図るとともに、他藩の富山売薬差し止めを解除すべく全力を挙げていた。 by niikawagun | 2008-09-04 19:54 | 越中国歴史
|
by niikawagun カテゴリ
以前の記事
最新のコメント
検索
タグ
おすすめキーワード(PR)
ファン
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||